15thGIG 要害城【山梨県甲府市】@「語感でアイロニー」#1541

■ 別名     要害山城 積翠山城
■ 所在地    山梨県甲府市上積翠寺町
■ 城郭構造   山城
■ 天守構造   -
■ 築城者    武田信虎
■ 主要城主   武田氏 徳川氏 加藤氏
■ 築城年    永正17年(1520)
■ 廃城年    慶長5年(1600)
■ 遺構     曲輪 土塁 虎口 石積 堀切 竪堀 井戸
■ 復元整備   説明板 石碑
■ 指定文化財  国指定(要害山)
■ 訪城日時   2017/05.02

■ 歴史

甲斐守護職の武田信虎が永正16(1519)年、躑躅ヶ崎館を造営して居館を石和から移し、その翌年の永正17(1520)年に躑躅ヶ崎館の詰の要害として築城された。武田氏の重臣、駒井高白斎政武の「高白斎記」の永正17(1520)年六月の条に「積翠寺丸山を御城に取り立てられ普請初る」と記されている。大永1(1521)年2月27日、今川氏親の属将で遠江土方城主(高天神城主が正しい)の福島正成が甲斐に侵攻、河内を占拠、9月6日に大島で合戦するが信虎は破れ、福島軍は富田城を陥として国中地方に侵攻した。この危機に信虎は正室の大井夫人を要害山城に避難させ、10月16日に飯田河原で福島軍を迎え撃ち敗走させた。この戦乱の直後11月3日にこの要害山城で大井夫人は嫡男の太郎(のちの武田晴信、信玄)を出産した。福島軍はこの後11月23日の上条河原の合戦で大将の福島正成が戦死する大敗北で撤退した。
天文10(1541)年6月14日、武田信虎の嫡男・晴信(のちの信玄)は重臣の板垣信方や甘利虎泰らに擁立されて父・信虎を駿河に追い、家督を相続した。晴信の時代にも躑躅ヶ崎館の詰の要害として存続したが実戦では使われていない。信玄死後、天正3(1575)年の長篠・設楽ヶ原合戦の敗北を受けて、武田勝頼は天正4(1576)年6月1日に要害山城の修築を命じている。
勝頼は天正9(1581)年、韮崎に新府城を築いて12月に居を移した。古府中の躑躅ヶ崎館は破却された。天正10(1582)年に織田信長・徳川家康の連合軍の侵攻によって武田氏が滅亡し、織田信長配下の河尻秀隆が甲府に入ったが、6月2日の本能寺の変で織田信長が死去すると甲斐国内に一揆が起こり、6月15日、河尻秀隆は殺害された。その後の武田氏遺領を廻り、徳川家康と北条氏直が戦うが(天正壬午の乱)、和睦により甲斐は徳川領とされ、躑躅ヶ崎館には仮御殿が造営され、平岩親吉が城将に任じられた。この頃には要害山城には駒井右京、日向玄東斎、日向半兵衛などが城番に任ぜられ、一時期加藤遠江守光泰が修復して在城した。
天正18(1590)年の小田原の役後、家康が関東に移封されると甲府には羽柴秀勝が任じられ、甲府城を完成させて移ったため躑躅ヶ崎館は廃城となり、要害山城は慶長5(1600)年終わりに破却された。

■ 写真 感想等

歴史の項にも書いたが、武田氏館の詰の要害として築城された。歩いても20分くらいで要害山の入り口まで着きます。良く出来てるよなあ。配置が。館とセットで造られてる。戦国時代って感じがしてゾクゾクします。

登山がてら登ってくと説明板が。竪堀跡。

当時の石垣かな。後から作られたっぽい気もするな。

この辺りから土塁も石垣も石積も本物感が出てきます。

不動曲輪。

主郭に着くまでに八つの門があったそう。そう簡単に攻められないね。

視界が開けてきた。最後の門跡かな。

登山ブログでも載せましたが、信玄が「おぎゃあ」と生まれた場所です。

遺構がゴロゴロしてます。ここで昼飯を食べて歴史に浸る。長閑で静かです。戦国時代は、もっとピリピリしてたのかなあ。

反対側の門跡。

よく残ってる石垣。てか、真下崖だよ。撮るの一苦労(笑)

要害山城は典型的な中世山城の格好をしています。山麓には「信玄産湯の井戸」がある積翠寺があり、この付近から登ると、まず数段の腰曲輪群が現れます。このあたりが山麓の大手口だったのだろう。10分ほど登ると、竪堀、土塁などとともに、多くの門跡(虎口)、曲輪が現れます。この門跡には石積みと枡形を伴うものが多く、とくに二の門の巨石を用いた石組みはお見事。主郭は長方形の広い曲輪で、周囲を土塁がほぼ全周しています。とくに搦手に向う枡形の土塁は重厚。主郭には「武田信玄公誕生の地」の碑も建っています。ここまででもかなり充実していますが、搦手からの尾根続きを進むとやはり門跡、石組みなどとともに、今度は多くの堀切、竪堀、土橋などが連続します。特に主郭搦手虎口背後の堀切などは堀切の断面にも石組みが見られる、珍しいものです。

よく信玄は「人は城、人は石垣、人は堀」の信条のもと、領国内に城を構えなかったように言われますが、さすがに本拠の詰の城は見事の一語。信虎の代から、信玄、勝頼の代まで修復が重ねられていたでしょうから、最終的に今見る遺構群は勝頼の代あたりに大幅に改修されたものであるとは思いますが、甲斐武田氏本拠の名に恥じぬ巣晴らしい城郭でした。

縄張図。

14thGIG 武田氏館【山梨県甲府市】@「語感でアイロニー」#1540

■ 別名     躑躅ヶ崎館
■ 所在地    山梨県甲府市府中町2611
■ 城郭構造   平城
■ 天守構造   -
■ 築城者    武田信虎
■ 主要城主   武田信虎 武田信玄 武田勝頼
■ 築城年    永正16年(1519)
■ 廃城年    文禄3年(1594)
■ 遺構     石垣 土塁 井戸 天守台 虎口 水堀
■ 復元整備   石碑 説明板
■ 指定文化財  国指定史跡
■ 訪城日時   2017/05.02

■ 歴史

永正16年(1519)武田信虎が石和の館を甲府に移したのがはじまり。躑躅ヶ崎館の北2.5kmの積翠寺(せきすいじ)山には、詰の城「要害城」が築かれており、大永元年(1521)駿河国(静岡県)の今川義元に攻め込まれた際には避難所として使われたという。天文10年(1541)信虎は子の晴信(信玄)により追放され今川氏を頼り駿河へ落ちた。
信玄は躑躅ヶ崎館を拠点に幾多の戦を遠征という形で行い、その最大領土は本国の甲斐、駿河と信濃の大半、上野・遠江・三河の数郡、美濃・飛騨・越中の一部にまで及び、今川・北条・上杉とうの戦国大々名との抗争が絶えることはなかった。
永禄7年(1564)から5回に亘る上杉謙信との「川中島合戦」有名だ。元亀3年(1572)京へ上る目的で征途についた信玄は、12月22日遠江の三方ヶ原で徳川軍を破ったものの病に倒れ、翌年4月12日帰国の途中、信濃・駒場(下伊那郡阿智村)で死去。
天正3年(1575)家督を継いだ勝頼が長篠合戦に敗れ、織田・徳川連合軍を迎え撃つため新府城(山梨県韮崎市中田町)に新城を建設すると躑躅ヶ崎館の役目は終わった。
その後、甲府城が築かれるまで館跡を修理して各将に使われていたという。

■ 写真 感想等

甲府駅南口に鎮座する言わずと知れた、「甲斐の虎」武田信玄。

武田三代の居住地。武田氏館。もっと良いネーミングはないのだろうかと思いつつ。百名城の一つです。スタンプ押してきたぞー(子供か)

西曲輪にある駐車場より水堀から攻める。土塁と堀の組み合わせもイカすよねえ。腰巻石垣と言うそうです。

西曲輪へは、コンクリの石橋が築かれている。縄張図を見ると当時も橋はあったよう。なきゃ、通れんが(笑)

橋からみた眺め。

赤い橋が見える所が武田神社入口。

西曲輪と中曲輪を隔てる堀。

ん?人懐っこいアヒル。久々に見たよ。

中曲輪と東曲輪に掛かる赤い橋。

石垣。

橋から見た東曲輪前の堀。

そして、武田神社へ。

風林火山に武田菱。いやあ。最高。

裏から見た石垣と土塁。

宝物殿

縄張図。

大手門跡。

大手門の土塁と石垣。

東曲輪と大手門の堀。縄張図を見ると、かつては、ここも水堀だった事が伺える。結構深い。

門を出て、大手門東遺構公園へ。発掘されて積み直された大手石垣。

厩跡。

広ーい。遠くに見えるのが、土塁と総堀。

新緑とのどかな景色と整備された歴史を堪能しつつ、大手門に戻り、本曲輪に戻る。能舞台。

本曲輪の西側にある石垣。この辺りに天守台跡があるはずなのだが、立ち入り禁止になっている。復元整備されるのだろうか。

西曲輪と本曲輪の間の堀跡。水は抜かれてるが深い。

西曲輪虎口の南出口。最初の方に写したアヒルのいる橋と水堀へ繋がる跡。

西曲輪桝形虎口。

北側から。

土塁。

土橋から見た西曲輪桝形虎口。

味噌曲輪。または北曲輪と呼ばれてる曲輪。土塁が見えるが、復元整備をして欲しい感じですな。

稲荷曲輪石垣。

西曲輪に戻り。中曲輪と西曲輪の間の土塁。

復元整備途中でしょうか。

御隠居曲輪スポット公園。

ここも、復元途中かな。

へとへとになりながら一周して、見落としてはいけない、梅翁曲輪へ。ここも復元途中かな。見ちゃいけないような復元途中。

レア。水堀にするっぽいね。

こちらは梅翁曲輪の水堀。

富士山に癒される。信玄も見てたんだろうなあ。

いやあ。見ごたえがあった。流石は百名城の一つ。復元途中感が結構あった。これからどう整備されていくのか楽しみ。それにしても、午前に甲府城も行ったから足パンパン。これから、武田氏館の支城。要害城。熊城。湯村山城。無事にたどり着けるだろうか・・・。

縄張図。復元模型等。

殺陣教室588@「語感でアイロニー」#1539

日曜日は殺陣本部道場。

素手のコースは池田と石川。前蹴りからワンツー上段蹴りのコンビネーションとそれに対する捌き方。捌く方も大事ですが、打ち込む側も綺麗に、そして相手に解りやすくしていって下さい。

初心者コースに北川瞬君が参加してくれました。彼とは、とある舞台で二本ほど共演させて頂いてます。そのときは、俳優同士の付き合いだったのですが。教える立場となると少しこそばゆいですな(笑)未来のビジョンがしっかりしてるから、一生懸命。流石です。俳優としてテレビや映画で活躍中のイケメン君です。これから、ヨロシクね。

上のクラスは個別に振り付け。ラストの殺陣は、静寂の間を入れた映像の殺陣。ベテラン二人は、静寂の意味を考えて動いてみてください。静寂とは、空間把握能力の究極です。これだけは、教えようがないです。持って生まれた感性のようなもの。そして、その感覚がないとただのうわべだけの隙間になります。殺陣の名手と呼ばれたかつてのスター達は、これが不思議と出来るのです。それぞれの個性はあるのですが。そんな所を細かく。

いい稽古でした。

殺陣教室587@「語感でアイロニー」#1538

近年、25度くらいの丁度いい感じのこの時期が、ほぼ夏に近づいてますよね。29度って夏だべ。

昨日は殺陣本部道場。

素手のコースは池田と石川。ミット連打と捌きと型を細かく。

上のクラスはレベルに合わせて個別に振り付け。石川と大参が舞台を終えて戻ってきて道場も活気づく。大参が見学者を連れてきてくれました。高木さん。お忙しい中、稽古見学ありがとうございました。大参もありがとね。

いい稽古でした。

トラのトレッキング 20thGIG 鐘撞堂山 羅漢山@「語感でアイロニー」#1537

里山ハイキングです。ゆる~い感じの。でも、結構景色良かったよ。

■ 山行記録

5月4日(祝)

寄居駅 07:40 大正池 08:00 鐘撞堂山 08:25(休憩10分) 羅漢山 08:45(休憩20分) 少林寺 09:15 鉢形城 10:15

■ 登った山

鐘撞堂山   330M
羅漢山    247M

■ 写真 感想等

本日はまったりと里山ハイキングからの城巡り。危ない箇所もなく気持ちいいハイキング。寄居駅を降りて鐘撞堂山へ。

後で行く鉢形城の防衛上鳴らす鐘があった場所だったんだね。繋がるねえ。

標高330Mにしては、凄いいい景色。寄居市街が見渡せます。5月の風も気持ちいい。

一服して羅漢山へ。

見晴らしはないが、明るくて落ち着く。地元のお婆さんと遭遇。挨拶したら、まあよくしゃべる(笑)20分くらい足止め(笑)昔からお婆ちゃんには妙に好かれるのであります。俺がおばあちゃん子だったからだろうか。若い女性に好かれたいものであります(笑)

一路少林寺へ。

少林寺。
ジェットリーは居ないだろうか(映画の観過ぎ)

クリリンは居ないだろうか(漫画だ。居るわけない)

だって、名前がさあ(笑)

綺麗な花。

つつじ?これも綺麗だね。

ここから鉢形城へ向かいます。そのブログはまた後日に。

ゆる~い登山もいいね。新緑にも癒されました。

トラのトレッキング 19thGIG 要害山 湯村山@「語感でアイロニー」#1536

ゴールデンウイークを利用して、甲斐攻め(城巡り)をしようと計画してたのですが。甲府は山城が多く、ついでに登山も兼ねる事に。不思議だね。趣味と趣味が重なって独自の登山となってきた。いや、普段の仕事も殺陣指導や殺陣師業務なんぞをやって生計を立てており。小さい頃から歴史好きで城巡りをしていた風変わりな子で(笑)歴史好きも手伝って色々と調べるのは苦じゃないし。時代背景も知らないと振り付けや所作なども指導できないしね。殺陣は足腰の柔らかさと強さが必要で、登山も歩くから。一石二鳥。気づいたら、仕事も趣味もリンクしてるね(笑)いや、一石三鳥か。移動時間は専ら、歴史小説ばかり読んでて。偏ってるよねえ、俺の人生(笑)なんか、色々な要素が形成されて今の自分なんだろうねえ。いやあ。楽しいなあ。城巡りのレポは時間がかかるので、後日。甲府周辺を死ぬほど歩いたよ。すげえええ、筋肉痛っす(笑)

■ 山行記録

5月2日(火)

要害山 13:05 湯村山17:20

■ 登った山

要害山   787M(山梨百名山)
湯村山   446M 

■ 写真 感想等

てなわけで、甲府城 武田氏館を見て。もうそれだけでも、足パンパンなのに、信玄の支城の一つ要害城を見るために、要害山へ。途中、土塁や曲輪跡などがあり、興奮して先になかなか進まず(笑)普通の登山なら、せっかちなくらいなスピードで頂上目指すんだけど。登山しながら、花や草を調べながら、ゆっくりと進む人たちの気持ちがようやく分かるようになってきた(笑)

要害山頂上。

そして。戦国最強の騎馬軍団と武田家24将を率い、あの覇王織田信長さえビビッてた、「甲斐の虎」事、武田信玄の生まれた場所なのだそうだ。

てか、随分と不便な所で生まれたんだね。結構登ったぜ。そして、やはり思う。病気じゃなかったらだとか、最強だったとか色々言われてるし、俺も好きな戦国武将の一人なんだけど。

天下は取れなかっただろうなあ

と。ライバル関係にあった「越後の竜」事、軍神上杉謙信も同じで。どれだけ、天才的な戦の強さを誇っていても

やはり、京都までは遠すぎるよ。

革命的な戦や通信の速さを利用した織田信長。そして、それを引き継いだ豊臣秀吉。この人たちに味方したのは、

地の利。

つまりは京都に近い所から覇業を始めたからなんだろうなあ

と。頂上で暫く思いに耽ってた(笑)だから、逆に信玄好きなのかなあ。

その後、登山じゃ考えられない道なき道を行き、もう一つの熊城を見て下山。そこから、息も絶え絶えになりながら、最後の湯村山へ。

ここは歩きやすかったな。近くに運動場もあるし、地元の方達が運動の為に、昇り降りしてて。頂上からのご褒美。

何故に富士山を見ると疲れが吹き飛ぶんだろう。歴史好きと登山好きの人にはうってつけの街。甲府。東京からも近いし。

明後日もまた登山と城巡りに行くよん。休み少ないから、詰め込む詰め込む(笑)

殺陣教室586@「語感でアイロニー」#1535

いい季節ですね。この時期が一番好きです。

昨日は殺陣本部道場。

素手のコースは池田。ミット連打とコンビネーションの捌き方等を細かく。

上のクラスは人数が少なかったので、俺も入ってのアドバイス。基本稽古(型 対人、移動)の意味を細かく。手付けは、スピードと回転を重視しました。

久々にいい意味での汗だく。帰りの夜風が気持ちいい。

いい稽古でした。

13thGIG 稲付城【東京都北区】@「語感でアイロニー」#1534

■ 別名     -
■ 所在地    北区赤羽西1
■ 城郭構造   平山城
■ 築城主    太田道灌
■ 主要城主   太田氏
■ 築城年    文明年間(1469-1487)
■ 廃城年    -
■ 天守構造   -
■ 遺構     空堀 堀切
■ 復元整備   石碑 案内板
■ 指定文化財  東京都指定文化財
■ 訪城日時   2017/04.29

■ 歴史

太田道灌が築城した稲付(いなつけ)城跡。石段右の石碑に「都旧跡 稲付城跡」と刻まれていますが、これがなければ城跡だとは気が付かないでしょう。 石段を登ると静勝寺の山門があり、その手前に北区の説明板が立っています。 武蔵野台地の崖を三方に使った城跡。昭和62年(1987)、静勝寺南方面でおこなわれた発掘調査によって出土した遺跡は石段を登った右側に置いてある。室町幕府足利13代将軍義輝(1546年-1567年将軍在住)の頃、関東にては小田原城の北条氏の全盛時代にあたる。岩槻城主太田資正は永禄7年(1564)正月8日、北条氏康は房州の雄・里見義弘と太田資正の連合軍と鴻臺(千葉県)に一戦して関東の覇を争い北条氏が勝利した、とある。以後、太田氏は北条氏の軍門に下ったものと考えられる。稲付城跡は現在の静勝寺境内一帯にあたり、太田道灌が築城したといわれる戦国時代の砦跡です。
昭和62年(1987)、静勝寺南方面で行われた発掘調査によって、永禄年間(1558~1569)末頃から天正10年(1582)頃に普請されたとみられる城の空堀が確認されました。また、静勝寺に伝存する貞享4年(1687)の「静勝寺除地検地地図」には境内や付近の地形のほか、城の空堀の遺構が道として描かれており、稲付城の城塁配置を推察することができます。
この付近には鎌倉時代から岩淵の宿が、室町時代には関が設けられて街道の主要地点をなしていました。稲付城は、その街道沿いで三方を丘陵に囲まれた土地に、江戸城と岩槻城を中継するための山城として築かれたのです。
道灌の死後、この城は孫の資高(すけたか)が居城し、後に後北条氏に仕えました。その子康資(やすすけ)は後北条氏の家臣として岩淵郷五ヶ村を所領しました。明暦元年(1655)に道灌の子孫資宗(すけむね)は静勝寺の堂舎を建立し、道灌とその父資清(すけきよ)の法号にちなんで寺号を自得山静勝寺と改めました。その後も江戸時代を通じて太田氏は、太田道灌の木造を安置する道灌堂や厨子を造営するなど静勝寺を菩提寺としていました。

■ 写真 感想等

赤羽まで移動して小高い樹々があるのですぐに解りました。

階段、急!

説明板。読むと勉強になるんだよね。

また神社巡り

江戸に太田道灌あり。

発掘調査で出土した石等

地形的に城跡だったであろう感じ。

北区城巡り。遺構は少なかったけど、城があったであろう地形と自然が随所に残っており。いい城巡りが出来ました。

12thGIG 滝野川城【東京都北区】@「語感でアイロニー」#1533

■ 別名     -
■ 所在地    北区滝野川3
■ 城郭構造   平山城
■ 築城主    滝野川氏
■ 主要城主   滝野川氏
■ 築城年    文明年間(1469-1487)
■ 廃城年    -
■ 天守構造   -
■ 遺構     -
■ 復元整備   説明板
■ 指定文化財  -
■ 訪城日時   2017/04.29

■ 歴史

治承四年(1180)、鎌倉幕府初代将軍・源頼朝は、石橋山の合戦で破れて安房に逃れたが、鎌倉に入って幕府を樹立する。この途次、軍勢を率いて滝野川の松橋に布陣したと云われる。「松橋」とは、当時の金剛地の寺域を中心とする地名で、隣接する石神井川の流域は、両岸に岩が切り立った要害の地形であった。
その後、文明年間(1469-1487)に滝野川氏が本格的に築城したとみられる。滝野川氏は名族・豊島氏の庶家で、地名を苗字とする土豪としてこの地の開発を行った。文明九年(1477)、太田道灌と戦って滝野川氏は本家・豊島氏とともに滅亡した。城址は北区滝野川3丁目、滝野川病院近くの金剛寺にある。

■ 写真 感想等

本日三つ目の攻城。石神井川沿いに歩いていくと滝野川城。頼朝の陣地だったんだね。

てか、城巡りと言うより、神社巡りに近くなってる(笑)

秋っぽい感じ。

石神井川が防御代わりだったんだろうか。

遺構などはないが、川沿いの散策は気持ちいい所ですね。新緑にも癒されます。

11thGIG 飛鳥山城【東京都北区】@「語感でアイロニー」#1532

■ 別名     -
■ 所在地    北区王子1
■ 城郭構造   平山城
■ 築城主    滝野川氏
■ 主要城主   滝野川氏
■ 築城年    文明年間(1469-1477)
■ 廃城年    文明9年(1477年)
■ 天守構造   -
■ 遺構     -
■ 復元整備   -
■ 指定文化財  -
■ 訪城日時   2017/04.29

■ 歴史

日本城郭全集によると桓武平氏の流れを汲んだ秩父党の出である豊島一族の滝野川氏の居城があったとのみ記載されています。飛鳥山城の近くには滝野川城もあり、こちらもその名のとおり滝野川氏の居城。隣駅の上中里駅にも、滝野川氏一族の長である豊島氏が現在練馬区の石神井城を扇谷上杉氏の重臣・太田道灌に追われ、逃げ込んだ城である平塚城があり、この一帯は豊島氏が統治していて、その豊島城砦群のひとつがこの飛鳥山城であったのでしょう。
太田道灌によって豊島一族は滅ぼされてしまいますので、その同時期にこの飛鳥山城も同様の運命を辿ったものだと思います。何も記載はありませんが、その後の扇谷上杉、山内上杉時代、また後北条氏の時代などにも何らかの施設が築かれていたとしても不思議ではない場所ですが、史料として出てくるのは徳川幕府が誕生し、さらに時代が過ぎた8代将軍吉宗の頃。桜を植え、それ以来この飛鳥山は桜の名所となったとされます。
城跡としての碑などは全く用意されていませんが、飛鳥山の碑というものが設置されています。この碑は元文2(1737)年に設置された歴史あるものだそうです。

■ 写真 感想等

上中里駅から飛鳥の道なるものをてくてく王子駅に向かって歩く事5分くらいで飛鳥山に当たる。

公園内に入ると尋常じゃない数の親子の群れ。お。D51。

暴れん坊将軍が来てたのね(笑)

城跡らしきものはないが、いい公園。桜の名所の一つと言うのもうなずける。

日焼けしてる裸の親父も写ってしまった(笑)

まったりと昼食を取り。つつじ。デザートに久々に蜜を啜ってみる(笑)子供の頃よくやった。意味不明な行為(笑)

綺麗。春だねい。

伝承地とは言え、やっぱそれっぽいよな。

アスカルゴだそうです。えーと、エスカルゴと架けてるんでしょうか。エスカルゴが飛鳥山と関係してない以上、韻を踏む意味が解らない。語感だけで決め込んだんんだろうか(汗)

明治通りを挟んで。

遺構は何もないが、とにかくいい公園。この季節にぴったり。今度、花見に寄りたいな。