殺陣教室812@「語感でアイロニー」#1881

やあ。

一年ぶりのブログで、

やあ。

もへちまもないのですが。元気に生きてます(笑)

道場も淡々と毎週続けております。今年も年末恒例の乱戦の発表会でした。時間との戦いであります。キツイです。しかし、共に作品を創れる事は、無上の喜びでもあり、楽しみでもあります。

今年は、剣舞も創作して道場性に演じて貰いました。動画を昨日観たのですが、少ない時間でよく粘れたなあと。見に来てくれた方が、

剣舞良かった

と、言ってくれたのでやって良かったなあ、と。

今年年末に集まってくれた道場生達と。今年は着替える前に(笑)

来年も共に精進しましょう。

よいお年を

殺陣教室761@「語感でアイロニー」#1880

日曜日は、年内最後の殺陣教室でした。毎年恒例の乱戦に函館戦争を題材にして30分の脚本を書き、二日で仕上げました(笑)無事演出と振り付けを終えることが出来、美味い酒が飲めました。道場生が芝居とは違う裏方としての各々の才覚を発揮して支えてくれました。本当にありがとう。

今年はコロナ禍で二か月ほど道場を閉鎖したり、人類が経験してないウイルスとの戦いで。今も第三波が来ていて。いつか、コロナを笑って語れる日が来るといいですね。

今回発表会に参加してくれた七人の侍達。着替えてしまってから写真撮ったので何の集まりだかわからんな(笑)

また来年もよろしくお願いします。

良いお年を。




40thGIG 前橋城【群馬県前橋市】@「語感でアイロニー」#1879

■ 別名     -

■ 所在地    群馬県前橋市大手町1

■ 城郭構造   輪郭式平城

■ 天守構造   型式不明 三重三階

■ 築城主    長野方業 松平直克

■ 主要城主   長尾氏 上杉氏 平岩氏 酒井氏 松平氏

■ 築城年    15世紀末 文久3年(1863)

■ 廃城年    明治4年(1871)

■ 遺構     曲輪 石垣 土塁 横堀

■ 復元整備   石碑 説明板

■ 指定文化財  -

■ 訪城日時   2019.05.02

■ 歴史

築城については太田道灌をはじめ諸説あるが、延徳年間(1490)頃に長尾忠房が石倉の地に築城したのがはじまりとされる。この最初の城は利根川の氾濫、侵食により押し流され、箕輪城に拠る長野氏の一族、長野賢忠により、残った三ノ丸を中心に再建され、箕輪城の支城となったという。長野賢忠は兄の箕輪城主・長野信業とともに蒼海城主・長尾顕景を圧迫した。天文十年には賢忠の勢力は膳・山上にも及んだが、金山城を攻めて敗れてから勢力を失った。天文二十年に平井城主・上杉憲政が越後春日山城へ亡命すると賢忠の子、道安は北条に高福祉、福島頼季、師岡山城守などが進駐した。 永禄三(1560)年以降、十三回とも言われる上杉謙信の関東出陣の際の駐留拠点となり、永禄六(1563)年には城代として越後北条城主・北条(きたじょう)高広を置いた。高広は一時謙信に叛き小田原北条氏に通じたが、越相同盟の際に上杉方に帰参した。元亀二年、十月十一日、謙信は厩橋城を出て、武田方の箕輪城主・内藤昌豊と対陣したが抗戦することなく撤退している。謙信は厩橋城で越年し、翌年正月三日、北条高広に命じて武田方の石倉城を攻め落としたが、武田軍が後詰を派遣したため高広は石倉城を破却して、川を挟んで両軍が対峙した。 天正六(1578)年に謙信が死去すると、上杉氏の跡目相続を巡り御館の乱が勃発、高広とその子景広は北条氏康の実子、上杉三郎景虎に与したが、景広は天正七年二月一日に討ち死にし、高広も厩橋城に帰った。 天正七(1579)年に高広は武田勝頼に降伏開城、天正十(1582)年に武田氏が織田信長によって滅ぶと、関東に赴任した滝川一益に開城。しかし本能寺の変により信長が横死すると一益は神流川合戦で北条氏邦に完敗し関東から撤退、厩橋城と高広は小田原北条氏に降った。 天正十八(1590)年の小田原の役では浅野長政らの軍勢に攻められ落城、小田原北条氏が滅ぶと徳川家康は譜代の平岩親吉を厩橋に置いた。 平岩氏に嫡子なく、江戸期は酒井氏九代-松平氏を城主が変遷した。松平氏入封当時は利根川の氾濫による崩壊や地震、大火などの災害により城は著しく荒廃し、明和五年(1768)、松平朝矩は幕府の許可を得て武蔵川越に移転し一旦城は廃城となった。前橋には川越の支藩として陣屋が置かれた。幕末近くの文久三(1863)年に前橋城は再興され松平氏が入封し廃藩置県により廃城となった。

■ 写真 感想等

車橋門跡。

本丸土塁跡。

天守閣(笑)市役所です。下がイメージだそうです。建つといいな。

防御の利根川。完璧じゃん。しばらく佇む。5月の風が心地よい。

復元模型。素晴らしい。

39thGIG 興国寺城【静岡県沼津市】@「語感でアイロニー」#1878

■ 別名     根古屋城

■ 所在地    静岡県沼津市根古屋

■ 城郭構造   連格式平山城

■ 天守構造   -

■ 築城主    北条早雲

■ 主要城主   後北条氏 武田氏 松平氏 中村氏 天野氏

■ 築城年    15世紀後期

■ 廃城年    慶長12年(1607)

■ 遺構     石垣 土塁 空堀 曲輪

■ 復元整備   石碑 説明板

■指定文化財  国史跡

■ 訪城日時   2019.05.04

■ 歴史

築城時期は明らかではないが、駿河守護職の跡目相続を廻り長享元(1487)年十一月九日、小鹿範満を討って今川氏親の相続を後押しした伊勢新九郎(のちの北条早雲)がその恩賞として富士郡上方荘・下方荘を与えられ築城したと言われる。しかしそれ以前に古い城館があったとも言われる。地名の由来はもともと興国寺という寺院があったのを鳥谷に移し、その跡に築城したことに由来すると言われる。 伊勢新九郎はこの地で「四公六民」の税制を実施するなど、先進的な統治を実施した。延徳三(1491)年、堀越御所を急襲し、足利茶々丸を討って伊豆に侵出、韮山城を築城し、生涯韮山城を居城とした。明応四(1495)年(異説あり)、新九郎は小田原城の大森藤頼に対し「小田原周辺で鹿追いをしたい」旨を申し入れ、その承諾を得た。宗瑞は鹿追いを装い韮山城を出兵、「火牛の計」という奇策を用いて夜間に小田原城を急襲しこれを奪取、以降小田原城が北条五代100年の居城となった。その後は興国寺城は今川領に復帰している。 天文五(1536)年、今川義元が武田信虎と和睦したことに怒った北条氏綱が駿東に侵出(河東一乱)、北条氏の支配下に入ったが、天文十四(1545)年、今川義元は北条の拠点であった長久保城を包囲・落城させ、駿東郡の支配を取り戻した。この合戦の教訓から天文十八(1549)年に興国寺城を大改修した。天文二十(1551)年に一時北条軍に奪回されるがすぐに取り戻している。永禄十一(1568)年に甲相駿三国同盟が破棄されると、北条氏政・氏邦は駿河に侵出、興国寺城、葛山城などを奪取している。氏政は永禄十二(1569)年五月、垪和(はが)伊予守氏続に守備を命じた。垪和氏続は武田軍の動静を小田原城に急報、吉原・沼津等で武田軍と交戦した。元亀元(1570)年八月、武田信玄は軍勢を二手に分けて興国寺城、韮山城を攻撃、また元亀二(1571)年一月にも武田軍の攻撃を受けているが撃退している。元亀二(1571)年十二月に甲相和睦が成立、その後は武田氏の属城となり、穴山信君の家臣、保坂掃部、向井伊賀守正重、曾根下野守正清らが在番した。天正十(1582)年、武田氏が滅亡すると曾根正清は徳川家康に興国寺城を明け渡し、徳川の家臣となった。興国寺城には牧野右馬允正康が入城した。 その後は松平清宗が天正十八(1590)年二月まで城主となり、その間天正十七(1589)年の地震で興国寺城や沼津城、長久保城などの塀や櫓が破損したことが残されている。天正十八(1590)年の小田原の役の後、徳川家康は関東に移封、駿府城に中村一氏が任じられると、興国寺城には家臣の河毛惣左衛門尉重次が入城した。 慶長五(1600)年の関ヶ原の役の後、翌六(1601)年二月に徳川家康の家臣、天野三郎兵衛康景が城主となったが、慶長十二(1607)年三月、天領の百姓を斬殺した家臣を引き渡すよう命ぜられた康景がこれを拒み遁走したため、興国寺城は破却、廃城となった。

■ 写真 感想等

この日は三つ目の城巡り。足パンパン。続百名城です。

三の丸跡

二の丸跡。

本丸土塁。

本丸にある稲見神社。

本丸土塁。

天守台石垣。

天守台

天守台から見た二の丸跡。

大空堀。

何の穴?なんか、怖い。

北曲輪跡。

清水曲輪跡。

三の丸跡。

縄張図。

万歩計あったら凄い歩数になりそう。歩き過ぎて、腹減り過ぎて、おやつに吉牛をカッ喰らう(笑)

38thGIG 蒲原城【静岡県清水区】@「語感でアイロニー」#1877

■ 別名     -

■ 所在地    静岡県清水区蒲原

■ 城郭構造   山城

■ 天守構造   -

■ 築城主    蒲原氏

■ 主要城主   今川氏 後北条氏 武田氏 徳川氏

■ 築城年    南北朝時代

■ 廃城年     -

■ 遺構      曲輪 石垣 土塁 堀切 

■ 復元整備    物見台 物見櫓 石碑 説明板

■ 指定文化財   市史跡

■ 訪城日時    2019.05.04  

■ 歴史

築城時期は明らかではないが、鎌倉期に入江清定の三男、清実が蒲原荘に居住し蒲原氏を名乗ったとされるが、築城は南北朝期と推定される。 天文四(1535)年ごろには蒲原氏徳が在城し、今川氏領国に対する富士川以東への備えとなった。天文十四(1545)年頃には飯尾豊前守が在番していた。この頃は駿東地区での北条氏との騒乱の中で、度々城将が替わっていたらしい。氏徳は永禄三(1560)年五月の田楽狭間合戦で討ち死にし、子の徳兼は駿府で今川氏家臣の高林源兵衛が今川氏真に謀反を企てた際にこれを討伐し感状を受けている。永禄四年九月頃には佐竹雅楽助高貞が城番であった。 永禄三(1560)年の今川義元の戦没後、衰退した今川氏を援ける為、北条氏が駿河に駐屯し、永禄十一(1568)年には北条氏家臣の布施佐渡守康則が鉄砲隊とともに守備を命じられている。永禄十一(1568)年、武田氏は甲相駿三国同盟を破棄し駿河へ侵攻、これに対し北条氏康、氏政父子は四万五千の大軍を伊豆半島に進軍させ、海上では水軍三百隻を沼津から清水に展開したが、武田軍一万八千は薩捶峠に布陣し、四月まで対峙した末、双方兵を退いた。この戦いで蒲原城の重要性を認識した北条は、北条幻庵長綱の子、北条新三郎氏信(綱重)、箱根少将長順兄弟を蒲原城に派遣、城郭を改修させた。同年七月、信玄は再び駿河へ侵攻するが暴風雨により富士川が増水して混乱、夜襲を受けて敗走した。永禄十二(1569)年十二月、信玄は三たび蒲原城を攻撃、十二月五日夜から翌六日未明にかけて武田勝頼、武田典厩信豊を総大将に蒲原城に攻めかかり、城将北条新三郎・長順兄弟以下、清水・笠原・狩野氏らの将兵一千はことごとく討ち死にした。武田軍は小幡弾正左衛門が討ち死にした。信玄の配下では山県三郎兵衛昌景が江尻城代として庵原郡を支配したが、蒲原城将の名は明らかではない。天正十(1582)年の織田信長・徳川家康の甲斐・駿河への侵攻の際、蒲原城は三月四日、朝比奈駿河守信置が守備していたが徳川軍の攻撃により落城したと言われる 。

■ 写真 感想等

この日は、駿河城からスタートしたのですが、写真が多いのでこちらから。土ばかり撮って何が面白ぇんだって話なんですが、在りし日の城と現在の姿の間を想像しながら歩く。そんな感じです(笑)

 

石垣

土塁

本郭南曲輪

駿河湾。オーシャンビュー!

物見台

石垣

ええ。貸し切りでした(笑)弱、登山。

37thGIG 高崎城【群馬県高崎市】@「語感でアイロニー」#1876

■ 別名     和田城

■ 所在地    群馬県高崎市高松町

■ 城郭構造   平城

■ 天守構造   独立式層塔型御三階櫓

■ 築城主    井伊直正

■ 主要城主   井伊氏 諏訪氏 松平氏 

■ 築城年    慶長2年(1597)

■ 廃城年    明治4年(1871)

■ 遺構     乾櫓 移築門(東門) 土塁 水堀

■ 復元整備   石碑 説明板

■ 指定文化財  県重要文化財(乾櫓)

■ 訪城日時   2019.05.02

■ 歴史

 和田氏は関東管領上杉氏に従属した。山内上杉氏が衰え、上杉憲政が越後に遁走すると、その養子となり関東管領を継いだ上杉謙信の配下となった。しかし、鶴ヶ丘八幡宮での忍城主・成田長泰への対応に不信感を抱き、次第に武田に内通するようになる。武田氏の滅亡後は滝川一益、北条氏などに従ったが、天正十八(1590)年の小田原の役で、上杉景勝、前田利家らの北方軍に攻められ落城した。 家康の関東入封後は、井伊直政を箕輪城に置いたが、慶長三(1598)年、井伊氏はより交通の便がいいこの和田の地に移り、和田城を修築して「高崎城」と改めた。井伊氏はわずか三年で近江彦根へ転封、以降は諏訪氏、酒井氏、松平氏、安藤氏らが城主・城代を勤めた。 寛永8年(1632年)、安藤重長のとき、徳川三代将軍・家光の実弟、忠長が駿河から配流、ここ高崎城で蟄居の身となった。三代将軍の座を巡る鬱積から、乱行を繰り返した果ての配流だった。忠長は翌寛永九(1633)年、蟄居先のここ高崎城で自害した。

■ 写真感想等

いやあ。去年のゴールデンウイークに攻めた城を今頃ひっそりとアップします(笑)

三ノ丸のお堀。もうね、高崎市をめぐる程の広さ(笑)

三の丸跡

乾櫓

東門

再びお堀外周の旅。結構歩くね。広い。

石垣水路跡

車橋門跡

天守閣(笑)

こっちね。

防御完璧。利根川。気持ちよかった

縄張図。復元模型。

いやあ。広かった。楽しかったなあ。

殺陣教室727@「語感でアイロニー」#1875

家の前の公園が学校の校庭が如く、子供で溢れかえってる。もうね、距離が濃厚接触。意味なくね?

そんなわけで、日曜日は、殺陣本部道場。

素手アクションコースは、パンチのコンビネーションと手付け。受け技をもう少し綺麗に柔らかく捌きましょう。

上のクラスは個別に手付け。ベテラン勢は、初心者の手付けの時こそ上手くなるチャンスです。スピードに余裕がある時に、どう斬り合いとして間を埋めてくか。セリフであるところの行間と一緒。道場は持ちつ持たれつお互いが切磋琢磨する場所。

いい稽古でした。


殺陣教室726@「語感でアイロニー」#1874

日曜日は、殺陣本部道場。

素手アクションコースは、ジャンピングソバットと飛び膝蹴りの手付けを。

上のクラスは個別に手付け。足を余り動かない手を。皆、速く振ろうと力み過ぎ。肩に力を入れると余計に遅くなる。当然立ち姿や所作も汚くなる。そんなところを細かく。

いい稽古でした。

殺陣教室725@「語感でアイロニー」#1873

日曜日は、殺陣本部道場。

素手アクションコースは、ミット打ちのコンビネーションと手付け。アクションとは関係ないが、柔らかいミットなのに、中指の拳が切れる。正しく打ってる証拠だと嬉しくなる。周りには心配されるが(笑)

初心者コースに、千早さんが参加。これから宜しくお願い致します。

上のクラスは個別に手付け。人数が多かったのでバサバサと斬る手付けを。

いい稽古でした。