■ 別名 躑躅ヶ崎館
■ 所在地 山梨県甲府市府中町2611
■ 城郭構造 平城
■ 天守構造 -
■ 築城者 武田信虎
■ 主要城主 武田信虎 武田信玄 武田勝頼
■ 築城年 永正16年(1519)
■ 廃城年 文禄3年(1594)
■ 遺構 石垣 土塁 井戸 天守台 虎口 水堀
■ 復元整備 石碑 説明板
■ 指定文化財 国指定史跡
■ 訪城日時 2017/05.02
■ 歴史
永正16年(1519)武田信虎が石和の館を甲府に移したのがはじまり。躑躅ヶ崎館の北2.5kmの積翠寺(せきすいじ)山には、詰の城「要害城」が築かれており、大永元年(1521)駿河国(静岡県)の今川義元に攻め込まれた際には避難所として使われたという。天文10年(1541)信虎は子の晴信(信玄)により追放され今川氏を頼り駿河へ落ちた。
信玄は躑躅ヶ崎館を拠点に幾多の戦を遠征という形で行い、その最大領土は本国の甲斐、駿河と信濃の大半、上野・遠江・三河の数郡、美濃・飛騨・越中の一部にまで及び、今川・北条・上杉とうの戦国大々名との抗争が絶えることはなかった。
永禄7年(1564)から5回に亘る上杉謙信との「川中島合戦」有名だ。元亀3年(1572)京へ上る目的で征途についた信玄は、12月22日遠江の三方ヶ原で徳川軍を破ったものの病に倒れ、翌年4月12日帰国の途中、信濃・駒場(下伊那郡阿智村)で死去。
天正3年(1575)家督を継いだ勝頼が長篠合戦に敗れ、織田・徳川連合軍を迎え撃つため新府城(山梨県韮崎市中田町)に新城を建設すると躑躅ヶ崎館の役目は終わった。
その後、甲府城が築かれるまで館跡を修理して各将に使われていたという。
■ 写真 感想等
甲府駅南口に鎮座する言わずと知れた、「甲斐の虎」武田信玄。
武田三代の居住地。武田氏館。もっと良いネーミングはないのだろうかと思いつつ。百名城の一つです。スタンプ押してきたぞー(子供か)
西曲輪にある駐車場より水堀から攻める。土塁と堀の組み合わせもイカすよねえ。腰巻石垣と言うそうです。
西曲輪へは、コンクリの石橋が築かれている。縄張図を見ると当時も橋はあったよう。なきゃ、通れんが(笑)
橋からみた眺め。
赤い橋が見える所が武田神社入口。
西曲輪と中曲輪を隔てる堀。
ん?人懐っこいアヒル。久々に見たよ。
中曲輪と東曲輪に掛かる赤い橋。
石垣。
橋から見た東曲輪前の堀。
そして、武田神社へ。
風林火山に武田菱。いやあ。最高。
裏から見た石垣と土塁。
宝物殿
縄張図。
大手門跡。
大手門の土塁と石垣。
東曲輪と大手門の堀。縄張図を見ると、かつては、ここも水堀だった事が伺える。結構深い。
門を出て、大手門東遺構公園へ。発掘されて積み直された大手石垣。
厩跡。
広ーい。遠くに見えるのが、土塁と総堀。
新緑とのどかな景色と整備された歴史を堪能しつつ、大手門に戻り、本曲輪に戻る。能舞台。
本曲輪の西側にある石垣。この辺りに天守台跡があるはずなのだが、立ち入り禁止になっている。復元整備されるのだろうか。
西曲輪と本曲輪の間の堀跡。水は抜かれてるが深い。
西曲輪虎口の南出口。最初の方に写したアヒルのいる橋と水堀へ繋がる跡。
西曲輪桝形虎口。
北側から。
土塁。
土橋から見た西曲輪桝形虎口。
味噌曲輪。または北曲輪と呼ばれてる曲輪。土塁が見えるが、復元整備をして欲しい感じですな。
稲荷曲輪石垣。
西曲輪に戻り。中曲輪と西曲輪の間の土塁。
復元整備途中でしょうか。
御隠居曲輪スポット公園。
ここも、復元途中かな。
へとへとになりながら一周して、見落としてはいけない、梅翁曲輪へ。ここも復元途中かな。見ちゃいけないような復元途中。
レア。水堀にするっぽいね。
こちらは梅翁曲輪の水堀。
富士山に癒される。信玄も見てたんだろうなあ。
いやあ。見ごたえがあった。流石は百名城の一つ。復元途中感が結構あった。これからどう整備されていくのか楽しみ。それにしても、午前に甲府城も行ったから足パンパン。これから、武田氏館の支城。要害城。熊城。湯村山城。無事にたどり着けるだろうか・・・。
縄張図。復元模型等。




















































































