38thGIG 蒲原城【静岡県清水区】@「語感でアイロニー」#1877

■ 別名     -

■ 所在地    静岡県清水区蒲原

■ 城郭構造   山城

■ 天守構造   -

■ 築城主    蒲原氏

■ 主要城主   今川氏 後北条氏 武田氏 徳川氏

■ 築城年    南北朝時代

■ 廃城年     -

■ 遺構      曲輪 石垣 土塁 堀切 

■ 復元整備    物見台 物見櫓 石碑 説明板

■ 指定文化財   市史跡

■ 訪城日時    2019.05.04  

■ 歴史

築城時期は明らかではないが、鎌倉期に入江清定の三男、清実が蒲原荘に居住し蒲原氏を名乗ったとされるが、築城は南北朝期と推定される。 天文四(1535)年ごろには蒲原氏徳が在城し、今川氏領国に対する富士川以東への備えとなった。天文十四(1545)年頃には飯尾豊前守が在番していた。この頃は駿東地区での北条氏との騒乱の中で、度々城将が替わっていたらしい。氏徳は永禄三(1560)年五月の田楽狭間合戦で討ち死にし、子の徳兼は駿府で今川氏家臣の高林源兵衛が今川氏真に謀反を企てた際にこれを討伐し感状を受けている。永禄四年九月頃には佐竹雅楽助高貞が城番であった。 永禄三(1560)年の今川義元の戦没後、衰退した今川氏を援ける為、北条氏が駿河に駐屯し、永禄十一(1568)年には北条氏家臣の布施佐渡守康則が鉄砲隊とともに守備を命じられている。永禄十一(1568)年、武田氏は甲相駿三国同盟を破棄し駿河へ侵攻、これに対し北条氏康、氏政父子は四万五千の大軍を伊豆半島に進軍させ、海上では水軍三百隻を沼津から清水に展開したが、武田軍一万八千は薩捶峠に布陣し、四月まで対峙した末、双方兵を退いた。この戦いで蒲原城の重要性を認識した北条は、北条幻庵長綱の子、北条新三郎氏信(綱重)、箱根少将長順兄弟を蒲原城に派遣、城郭を改修させた。同年七月、信玄は再び駿河へ侵攻するが暴風雨により富士川が増水して混乱、夜襲を受けて敗走した。永禄十二(1569)年十二月、信玄は三たび蒲原城を攻撃、十二月五日夜から翌六日未明にかけて武田勝頼、武田典厩信豊を総大将に蒲原城に攻めかかり、城将北条新三郎・長順兄弟以下、清水・笠原・狩野氏らの将兵一千はことごとく討ち死にした。武田軍は小幡弾正左衛門が討ち死にした。信玄の配下では山県三郎兵衛昌景が江尻城代として庵原郡を支配したが、蒲原城将の名は明らかではない。天正十(1582)年の織田信長・徳川家康の甲斐・駿河への侵攻の際、蒲原城は三月四日、朝比奈駿河守信置が守備していたが徳川軍の攻撃により落城したと言われる 。

■ 写真 感想等

この日は、駿河城からスタートしたのですが、写真が多いのでこちらから。土ばかり撮って何が面白ぇんだって話なんですが、在りし日の城と現在の姿の間を想像しながら歩く。そんな感じです(笑)

 

石垣

土塁

本郭南曲輪

駿河湾。オーシャンビュー!

物見台

石垣

ええ。貸し切りでした(笑)弱、登山。

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です