39thGIG 興国寺城【静岡県沼津市】@「語感でアイロニー」#1878

■ 別名     根古屋城

■ 所在地    静岡県沼津市根古屋

■ 城郭構造   連格式平山城

■ 天守構造   -

■ 築城主    北条早雲

■ 主要城主   後北条氏 武田氏 松平氏 中村氏 天野氏

■ 築城年    15世紀後期

■ 廃城年    慶長12年(1607)

■ 遺構     石垣 土塁 空堀 曲輪

■ 復元整備   石碑 説明板

■指定文化財  国史跡

■ 訪城日時   2019.05.04

■ 歴史

築城時期は明らかではないが、駿河守護職の跡目相続を廻り長享元(1487)年十一月九日、小鹿範満を討って今川氏親の相続を後押しした伊勢新九郎(のちの北条早雲)がその恩賞として富士郡上方荘・下方荘を与えられ築城したと言われる。しかしそれ以前に古い城館があったとも言われる。地名の由来はもともと興国寺という寺院があったのを鳥谷に移し、その跡に築城したことに由来すると言われる。 伊勢新九郎はこの地で「四公六民」の税制を実施するなど、先進的な統治を実施した。延徳三(1491)年、堀越御所を急襲し、足利茶々丸を討って伊豆に侵出、韮山城を築城し、生涯韮山城を居城とした。明応四(1495)年(異説あり)、新九郎は小田原城の大森藤頼に対し「小田原周辺で鹿追いをしたい」旨を申し入れ、その承諾を得た。宗瑞は鹿追いを装い韮山城を出兵、「火牛の計」という奇策を用いて夜間に小田原城を急襲しこれを奪取、以降小田原城が北条五代100年の居城となった。その後は興国寺城は今川領に復帰している。 天文五(1536)年、今川義元が武田信虎と和睦したことに怒った北条氏綱が駿東に侵出(河東一乱)、北条氏の支配下に入ったが、天文十四(1545)年、今川義元は北条の拠点であった長久保城を包囲・落城させ、駿東郡の支配を取り戻した。この合戦の教訓から天文十八(1549)年に興国寺城を大改修した。天文二十(1551)年に一時北条軍に奪回されるがすぐに取り戻している。永禄十一(1568)年に甲相駿三国同盟が破棄されると、北条氏政・氏邦は駿河に侵出、興国寺城、葛山城などを奪取している。氏政は永禄十二(1569)年五月、垪和(はが)伊予守氏続に守備を命じた。垪和氏続は武田軍の動静を小田原城に急報、吉原・沼津等で武田軍と交戦した。元亀元(1570)年八月、武田信玄は軍勢を二手に分けて興国寺城、韮山城を攻撃、また元亀二(1571)年一月にも武田軍の攻撃を受けているが撃退している。元亀二(1571)年十二月に甲相和睦が成立、その後は武田氏の属城となり、穴山信君の家臣、保坂掃部、向井伊賀守正重、曾根下野守正清らが在番した。天正十(1582)年、武田氏が滅亡すると曾根正清は徳川家康に興国寺城を明け渡し、徳川の家臣となった。興国寺城には牧野右馬允正康が入城した。 その後は松平清宗が天正十八(1590)年二月まで城主となり、その間天正十七(1589)年の地震で興国寺城や沼津城、長久保城などの塀や櫓が破損したことが残されている。天正十八(1590)年の小田原の役の後、徳川家康は関東に移封、駿府城に中村一氏が任じられると、興国寺城には家臣の河毛惣左衛門尉重次が入城した。 慶長五(1600)年の関ヶ原の役の後、翌六(1601)年二月に徳川家康の家臣、天野三郎兵衛康景が城主となったが、慶長十二(1607)年三月、天領の百姓を斬殺した家臣を引き渡すよう命ぜられた康景がこれを拒み遁走したため、興国寺城は破却、廃城となった。

■ 写真 感想等

この日は三つ目の城巡り。足パンパン。続百名城です。

三の丸跡

二の丸跡。

本丸土塁。

本丸にある稲見神社。

本丸土塁。

天守台石垣。

天守台

天守台から見た二の丸跡。

大空堀。

何の穴?なんか、怖い。

北曲輪跡。

清水曲輪跡。

三の丸跡。

縄張図。

万歩計あったら凄い歩数になりそう。歩き過ぎて、腹減り過ぎて、おやつに吉牛をカッ喰らう(笑)

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