37thGIG 高崎城【群馬県高崎市】@「語感でアイロニー」#1876

■ 別名     和田城

■ 所在地    群馬県高崎市高松町

■ 城郭構造   平城

■ 天守構造   独立式層塔型御三階櫓

■ 築城主    井伊直正

■ 主要城主   井伊氏 諏訪氏 松平氏 

■ 築城年    慶長2年(1597)

■ 廃城年    明治4年(1871)

■ 遺構     乾櫓 移築門(東門) 土塁 水堀

■ 復元整備   石碑 説明板

■ 指定文化財  県重要文化財(乾櫓)

■ 訪城日時   2019.05.02

■ 歴史

 和田氏は関東管領上杉氏に従属した。山内上杉氏が衰え、上杉憲政が越後に遁走すると、その養子となり関東管領を継いだ上杉謙信の配下となった。しかし、鶴ヶ丘八幡宮での忍城主・成田長泰への対応に不信感を抱き、次第に武田に内通するようになる。武田氏の滅亡後は滝川一益、北条氏などに従ったが、天正十八(1590)年の小田原の役で、上杉景勝、前田利家らの北方軍に攻められ落城した。 家康の関東入封後は、井伊直政を箕輪城に置いたが、慶長三(1598)年、井伊氏はより交通の便がいいこの和田の地に移り、和田城を修築して「高崎城」と改めた。井伊氏はわずか三年で近江彦根へ転封、以降は諏訪氏、酒井氏、松平氏、安藤氏らが城主・城代を勤めた。 寛永8年(1632年)、安藤重長のとき、徳川三代将軍・家光の実弟、忠長が駿河から配流、ここ高崎城で蟄居の身となった。三代将軍の座を巡る鬱積から、乱行を繰り返した果ての配流だった。忠長は翌寛永九(1633)年、蟄居先のここ高崎城で自害した。

■ 写真感想等

いやあ。去年のゴールデンウイークに攻めた城を今頃ひっそりとアップします(笑)

三ノ丸のお堀。もうね、高崎市をめぐる程の広さ(笑)

三の丸跡

乾櫓

東門

再びお堀外周の旅。結構歩くね。広い。

石垣水路跡

車橋門跡

天守閣(笑)

こっちね。

防御完璧。利根川。気持ちよかった

縄張図。復元模型。

いやあ。広かった。楽しかったなあ。

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です