18thGIG 甲府城【山梨県甲府市】@「語感でアイロニー」#1552

■ 別名     甲斐府中城 一条小山城 府中城 舞鶴城
■ 所在地    山梨県甲府市丸の内1-5-4
■ 城郭構造   平山城
■ 天守構造   -
■ 築城者    浅野長政 幸長
■ 主要城主   加藤氏 浅野氏 徳川氏 柳沢氏
■ 築城年    文禄 慶長年間(1590)年代
■ 廃城年    明治6(1873)年  
■ 遺構     曲輪 石垣 水堀 虎口 枡形 
■ 復元整備   平成8年鍛冶曲輪門 平成11年内松陰門・稲荷曲輪 平成16年稲荷櫓 平成25年鉄門復元
■ 指定文化財  県指定史跡
■ 訪城日時   2017/05.02 

■ 歴史

天正10年(1582年)戦国大名の武田氏滅亡後、甲斐国は、織田信長の領国となり、本能寺変の後は徳川家康の支配下に置かれました。しかし、豊臣秀吉が天下統一を成し遂げると、秀吉の命により甥の羽柴秀勝と腹心の部下である加藤光泰らによって築城が始められ、浅野長政・幸長父子の手により完成をみました。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い以降は再び徳川家の城となり、幕末まで城の歴史は存続しました。
舞鶴城は江戸時代の初め、将軍家一門が城主となる特別な城でしたが、宝永元年(1704年)徳川綱豊が第5将軍徳川綱吉の嗣子となり江戸城へ移り住むと、柳沢吉保が城主となり、大名の城として最も整備され、城下町とともに大きく発展しました。柳沢氏が大和郡山城主として転封されると、甲斐国は幕府の直轄地となり、舞鶴城は甲府勤番の支配下に置かれることとなりました。その間、享保年間の大火により本丸御殿や銅門などを焼失、壮麗な姿は失われていきました。
明治時代になると廃城となり、明治10年頃には城内の主な建物は取り壊され、勧業試験場として利用が始まるなど、新たな歴史を歩み出しました。 明治30年(1897年)には、中央線敷設に伴い屋形曲輪、清水曲輪の解体が決定され、甲府停車場、すなわち今の甲府駅の建設地となっていきました。 明治37年(1904年)に本丸周辺を舞鶴公園として開放、昭和5年(1930年)には甲府中学校の移転に伴い、県庁舎、県会議事堂が楽屋曲輪跡に移り、同時に西側、南側の堀は完全に埋められ、城跡はほぼ現在と同じ景観になりました。

■ 写真 感想等

武田氏館やその支城とは全く雰囲気が違う甲府城。高石垣にただただ興奮。やはり俺は石垣とお堀が好きである。そんなわけで当時からすると三分の一に縮小されている甲府城を攻める。

まずは稲荷曲輪から。井戸跡。

稲荷櫓を稲荷曲輪側から。

外側から。ぐおお。石垣高ぇ!たまらんね。

前を通る道はかつて水堀だったらしい。

そのまま数寄屋曲輪の外石垣へ。

ぐお!。高ええ!かっけえ!

と、朝からハイテンションで独り言をのたまってると、地元のサラリーマンから、狂人を見るかの如き冷たい視線を浴びる(笑)

唯一残る水堀へ。たまらんね。石垣と水堀でご飯五杯食えるね(そんなわけない)

遊亀橋からの眺め。

埋め立てられた水堀の端から。

鍛冶曲輪門前の石垣。なんか不自然だなあと縄張図を見たら、本来はこの先に追手門があったみたいだね。

鍛冶曲輪門。

内松陰門の塀。これで外周を一通り眺め終わる。

内松陰門から城内へ攻め入る。

城内から見た内松陰門。

銅門跡。

石垣跡を見ても相当大きい門だったのかもね。

遥か下に見える内松陰門。

本丸に攻め入る。櫓跡。

ビビりなんで、天守台は後回しにして、鉄門へ(笑)本丸側から。

天守曲輪側から見た鉄門。ぐおお。石垣高え!

中の門跡。

中の門を降りて、鍛冶曲輪を通って数寄屋櫓跡へ。

高石垣の内側の塀。

数寄屋曲輪。

稲荷曲輪へ続く塀。

稲荷曲輪にある二重の石垣。

庄城稲荷跡。

上に見える天守台。高いでしょ。

稲荷曲輪門。

稲荷曲輪側から見た稲荷曲輪門。

鍛冶曲輪から見た稲荷曲輪門。

天守曲輪から見た天守台と塀があったであろう石垣。流石は平山城。石垣バンバン。

本丸に再び昇り。見えてくるは、天守台跡。

天守台から見た山々と謝恩碑。

天守台から見た本丸と本丸櫓跡。

本丸から見た鍛冶曲輪と水堀。

で。フジヤマ。最高。

本丸から見た稲荷櫓。

甲府駅南口から北口に移動し、山手渡櫓門へ。完全に電車で分断されてますな。

山手御門。

時の鐘。

現在の城跡図。縄張図。復元模型。

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