■ 別名 -
■ 所在地 群馬県高崎市箕郷町西明町
■ 城郭構造 平山城
■ 天守構造 -
■ 築城主 長野業尚 武田信玄 北条氏邦 井伊直正
■ 主要城主 長野氏 武田氏 織田氏 後北条氏 井伊氏
■ 築城年 永正9年(1512)
■ 廃城年 慶長3年(1598)
■ 遺構 堀 石垣 土塁 曲輪 馬出 井戸
■ 復元整備 門 石碑 説明板
■ 指定文化財 国指定史跡
■ 訪城日時 2019.05.02
■ 歴史
築城年代は定かではないが永正年間初頭(1505年)頃に長野業尚によって築かれたと云われる。 長野氏の名が史料に出てくるのは永享11年(1439年)の結城合戦で、上杉氏に従った一揆衆の中に長野周防守、長野宮内、長野左馬助の名が見える。 長野氏は関東管領上杉氏に従っていたが上杉氏が次第に勢力を弱め、越後国長尾氏を頼って落ちると長野業政は西上野の中心的な存在となった。西上野侵攻を目指す甲斐の武田信玄であったが、長野業政は西上野の国人衆らと固く守ってこれを許さなかった。 永禄4年(1561年)長野業政が没して長野業盛が家督を継ぐと、武田信玄の西上野侵攻も激しくなり、永禄9年(1566年)ついに箕輪城は落城し、長野業盛は自刃して果てた。 武田氏は城主として内藤昌豊を入れたが、昌豊は天正3年(1575年)長篠の合戦で戦死しその子昌月が継いだ。天正10年(1582年)武田氏が滅亡すると、北条氏邦が侵攻し昌月はこれに降るが、織田信長の武将滝川一益が上野に入ると氏邦も追われて滝川氏の城となる。 しかし、一益は織田信長が本能寺で討たれたため伊勢国に戻り、再び氏邦の支配するところとなった。 天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐の後は、関東に入部した徳川家康の家臣井伊直政が十二万石で入城した。慶長3年(1599年)井伊直政は高崎城を築城し居城としたため箕輪城は廃城となった。
■ 写真感想等
ゴールデンウイークから城巡りをあれこれしてたのですが、アップ出来ておらず。たまってます(笑)百名城の一つ箕輪城へ。
搦手口
土塁
堀切。深いね。
木俣
復元された郭馬出西虎口門
土橋
大堀切。見ごたえ充分。
三の丸跡と石垣。
三の丸から見た大堀切。
鍛冶曲輪に残る石垣
二の丸へ。
二の丸から本丸への本丸馬出し門
二の丸と本丸の堀切。圧巻。
本丸
本丸西虎口。新たに復元するのかな。箕輪城は整備が進んでるね。蔵屋敷へと続く門。蔵屋敷も整備中だった。
御前曲輪
本丸と御前曲輪の堀切。
御前曲輪西虎口門跡
堀切
御前曲輪の井戸跡。
御前曲輪北堀
丸馬出
新曲輪
稲荷曲輪
稲荷曲輪の堀。かつては水堀だったそう。
縄張図
百名城。見ごたえあり。特に堀切がすごいね。整備中の所も多く。城好きとしては、どんどん復元して欲しいね。