■ 別名 -
■ 所在地 東京都八王子市下恩方西寺方町
■ 城郭構造 山城
■ 築城者 北条氏照
■ 主要城主 北条氏照
■ 築城年 1587(天正15年)
■ 廃城年 1590(天正18年)
■ 遺構 石垣 曲輪 御主殿跡
■ 復元整備 石垣 虎口 引橋
■ 指定文化財 国史跡
■ 訪城年 2018/05/01
■ 歴史
北条氏康の三男・氏照が1571年(元亀2年)頃より築城し、1587年(天正15年)頃に本拠とした。氏照は当初、大石氏の滝山城に拠っていたが、小田原攻撃に向かう甲斐国(現在の山梨県)の武田信玄軍に攻められた際に滝山城の防衛の限界を感じて本拠を八王子城に移した。このとき、織田信長の築城した安土城を参考に石垣で固めた山城構築を行った。滝山城は広大かつ多くの角馬出や内枡形を備えた近世的な平山城であったが、山城である八王子城に移ったことで氏照は時代に逆行したとも言われている。しかし、八王子城は一般的な山城のような尾根と堀切を利用した縦深防御に加えて、侵入してくる敵に対しいたる所から側射をかける仕組みになっている。織豊系城郭と比較すると、より近世的な戦術を志向している。
小田原征伐の一環として1590年(天正18年)7月24日(旧暦6月23日)、八王子城は天下統一を進める豊臣秀吉の軍勢に加わった上杉景勝、前田利家、真田昌幸らの部隊1万5千人に攻められた。当時、城主の氏照以下家臣は小田原本城に駆けつけており、八王子城内には城代の横地監物吉信、家臣の狩野主善一庵、中山勘解由家範、近藤出羽守綱秀らわずかの将兵の他、領内から動員した農民と婦女子を主とする領民を加えた約3000人が立て籠った。
豊臣側は前夜のうち霧をぬって主力が東正面の大手口(元八王子町)と北側の絡め手(下恩方町)の2方向より侵攻し、力攻めにより早朝には要害地区まで守備隊を追いやった。その後は激戦となり1000人以上の死傷者を出し、一時は攻撃の足が止まったが、絡め手側別働隊の奇襲が成功して、その日のうちに城は陥落した。氏照正室、比左を初めとする城内の婦女子は自刃、あるいは御主殿の滝に身を投げ、滝は三日三晩、血に染まったと言い伝えられている。城代の横地監物は落城前に檜原村に脱出したが、小河内村付近にて切腹している。落城時に御主殿にいた北条方の婦女子や武将らが滝の上流で自刃し、次々と身を投じたと言われている。麓の村では城山川の水で米を炊けば赤く米が染まるほどであったと伝えられ、現代でも受け継がれている風習として、先祖供養にあずきの汁で米を炊いた「あかまんま」(すなわち赤飯)を炊くことは、この逸話がもとになっているといわれている。
この八王子城攻防戦を含む小田原征伐において北条氏は敗北し、城主の北条氏照は兄、氏政とともに切腹した。のちに新領主となった徳川家康によって八王子城は廃城となった。
■ 写真 感想等
えーとですね。八王子を駆け巡り三つ目の城巡り。そして、登山。百名城の一つ。八王子城へ。

大手門跡。


古道


曳橋。石垣。




櫓門跡。


冠木門


御主殿跡。氏照の館跡。広い居館だな(笑)
























下からじっくりと石垣鑑賞。




そして、落城時に北条方の武将や婦女子らが滝の上で自刃して、身投げして、その血で三日三晩赤く染まったとされる御主殿の滝。言わずと知れた心霊スポットです。

ええ。怖すぎて俺は下まで行けませんでした。写真に写ってる人達は見学者達です(笑)

いざ本丸へ。てか、登山(笑)いきなり古びた石垣。当時の物だろうか。



金子丸跡


柵門跡


高丸跡。

松木曲輪からの眺め。気持ちよかった。


小宮曲輪



頂上。本丸跡。登山としても最高。趣味二つの合わせ技。



八王子周辺の城巡りはまだ続く(笑)ぶっちゃけ、足にキテます(笑)
縄張図。

