教えるという事@「語感でアイロニー」#297

教えることで教わることは多い。
今、養成所、教室含め一週間で150人と向き合ってる。

普段自分が出来てることでも、他人に伝えるということは案外難しい。そして他人に説明することで自分自身発見することも多い。何気なくやってたこともこういう原理だったのか、と。

実際、教えてあげて。と、言う時にその人が

「こうやって、ああやって、大濱さんはこう言ってました」

と訳のわからんことを言ってしまう場合、間違いなくその人は、「教えるのが下手」でも「口べた」でもなく「理解が浅い」という事にほかならないのだ。そんなもんは言い訳にしか聞こえないもので。「口べた」というラインで責任逃れしちゃうんだけど。昔、メンバーには教えるという姿勢に言い訳したような態度を取ってたのですごい怒ったことあったけど。「俺なんて」という負の姿勢がとてつもなく嫌だったのもある。説明できないイコール天才の幻想は持たない方が身のためだね。自分で深く理解したものは必ず説明できるし伝わるものです。

教えることで己自身の理解というものがわかるというもの。

古代太古に言葉はなかった。伝えたいという思いが絵になり言葉になっていった。僕らはそれを簡単に使っているがそれを生み出していった先達には頭が下がる思いだ。僕らはそれを板上なりカメラ前なりで商売をしている。

殺陣という伝統とか劇団ごとにある演技論もそれは生み出したものの言葉だから人に伝わるのだが、それが時が経つにつれ、ただの技術論にしかならないで伝わって非常に面白くないものになってしまったり、常識論にしかならなくなってしまったり。はたまた伝統というあやふやなものになってしまったり。

俺は自分の理解したことを言葉にする時は、受け売りではなく自分の言葉でしゃべるようにしている。ので、俺の後輩達も伝える時が来たら俺の言葉ではなく自分の言葉で伝えて欲しい。でないと本当に伝えたいことは伝わらなくなるから。言葉だけの羅列になってしまう。そして自分自身の理解もわからず上から物を言うだけになってしまうから。

俺が若いころ、先生や先輩でただの受け売りで押しつける感じの人はすぐ見抜けたので一切言うこと聞かなかったから。それはその方々が理解が浅かったからだろう。俺は道場通ってた時に並みいる大先輩がひしめく中、24で師範代という過酷なポジションをまかされた。これはきつかった。先輩に物言わねばならず。自分如きが。の思いもあったが口に出さずそれを言葉にするために言葉を努力するのではなく身体理解をするためにより精進したのは確か。肩書きがより自分を深めるのは確か。ナメラレたくないという思いから始まった感覚が、気づくとどうやったら人が理解してもらえるか、どうやったらお金をもらって学ぶ者に失礼ないかという深いものに変わっていく。現場の上にいることは人間も深めていくことになる。

自分の言葉で伝えるということはそいつそのものの歴史であろう。

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です